三沢対川田の最高の楽しみ方

141 名前:お前名無しだろ[sage] 投稿日:2005/07/19(火) 11:41:10
三沢対川田の最高の楽しみ方。
用意するもの
 
1:二人の歴史に対する知識
2:90年代の二人の試合を見た経験
3:1・2がない人は、先週の週ゴン川田インタビュー
 
あとは、ラストの120%エルボーを何発食らっても倒れない、
どれだけ食らっても離されまいと追いすがる川田の姿を目に焼き付けるだけ。
試合後のマイクは親切丁寧に川田が種明かししてくれているんで素敵です。
 
はい、君ももうボロ泣きできる。衰えた、キレがないってのは仕方ない。
しかし、二人を昔から見てきたプロレスファンだけが、プロレスだからこそ
感じられる切なさの渦が、この試合には存在しとるのですなあ。
 
 
198 名前:三沢・川田を知らぬものに告ぐ[sage] 投稿日:2005/07/19(火) 12:30:46
新日に練習生として入門を許されるも「高校には行け」としてレスリングの名門
足利工業大学附属高等学校に入学する。入学前、必要なものを高校へ買いに行った時、
レスリング部顧問から「あいつもレスラーを目指してるんだよ」と指を指した先に
居たのが三沢光晴。高校時代は同じプロレス志望、寮には三沢の部屋にしか
テレビがなかったのでプロレスを見ながら語り合った。三沢は体育会系にありがちな
後輩への過度なしごきはせず、それ以外に余り大きなつながりはなかったという。
  
三沢は卒業後、全日本へ。川田も「入りたいなら、話を通しておくけど」の言葉で
川田も全日本に入団を果たす。寮で初めて三沢を見た時は、部屋でゲロを吐き
寝ていたそうだ。三沢は入団当初から馬場にかわいがられ、通常5万の給料を
7万もらっていたり将来を約束されていた。川田は小川の入団までの3年間、
後輩がおらず下働きと練習に明け暮れた。そのうちに三沢は海外修行へと出発、
本人は不本意ながらもすぐに帰国しタイガーマスクとして華々しくデビューを果たす。
タイガーのスタイルを磨く為、川田は三沢と練習を共にするが、飛び技や蹴り技は
三沢よりも飲み込みが早くすぐにこなして見せた。この頃の川田は、三沢に対する
何かがあったのかもしれないが、飛び技を主体にした戦い方をしていた。
ついに川田も海外修行に旅立つも、帰ってくればタイガーが更にステップアップ、
自分はいまだに前座という現実であった。
 
 
200 名前:三沢・川田を知らぬものに告ぐ[sage] 投稿日:2005/07/19(火) 12:33:29

浮上のきっかけは天龍同盟と「冬木」とのコンビ、「フットルース」。アジアタッグを獲得し、
一気に三沢へと迫ろうした。そして、第一次大量離脱。残ることを決意した川田は、
離脱後初めての試合でタイガーと組み、そしてタイガーのマスクを脱がすことになる。
こうして、二人は「超世代軍」として最強のタッグを結成し、歴史に名を残してくことになる。
この頃はプライベートでも一緒におり、三沢はいい先輩として良くしてくれたそうだ。
しかし、鶴田という最強の穴を埋めるか如く、二人はリングの対角線に立つことになる。
二人の真の運命がここから動き出す。ハードヒットの四天王プロレスの最高峰を
築き上げて行く、川田が敗北を重ねながら。何時までたっても追い越せない、
すぐ目の前に背中が見えたと思ったら、すぐにまた見えなくなる。これが何年も続いた。
98年5月1日。全日本プロレスが東京ドームに進出したあの日、川田は三沢を下す。
ラカン・ラナでパワーボムを返そうとした三沢を踏ん張って耐え、
だらんと垂れ下がった三沢をそのまま垂直落下に叩き付けた。
運命の女神が味方したのか三冠ヘビーを奪取し、三沢を越えた瞬間であった。
しかし、その女神はいたずらなもので、その直後の防衛線ですぐにベルトを失ってしまう。
まるで三沢戦で全てを使い果たしたかのごとく。
99年、この時も三沢が王者として川田に立ちふさがる。序盤の後頭部裏拳で右手を砕くも
再び三沢を追い越した。しかし、その折れた右腕では戦えぬとし、三冠は返上となる。
「ここまでしなくちゃ、獲れないベルトなんだろうね」とは試合後のコメントであるが、
それでもすぐさまベルトは遠くへ去って行ってしまった。まるで、何かの呪いかの如く。
結局、川田は真の意味で三沢を追い越すことは出来なかった。
 
そして三沢は社長就任、川田も副社長へと就く。しかしこの時間は長続きせずに、
三沢は信念を貫く為に新団体を設立し、川田は信念と全日を守り通す為に居残った。
これで二人の歴史は終止符を打ち、永遠の別れとなる、はずだった。
  
そして、2005年7月18日。二人は再び、リングで再開を果たすことになる。
三沢は過去の幻影を振り払う為に。川田はついに追い越せなかったあの背に
たどり着く為に。